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書評

大澤真幸著『ナショナリズムの由来』講談社2007.6.刊行

『東洋経済』2007.9.8, 140頁.

橋本努

 

 

 大澤社会学の真骨頂。延べ一五年にわたる構想を経て誕生した記念碑的労作である。現代のあらゆる思想を通観し、自らの理論体系を縦横無尽に拡張しながら現代史を踏破する。そのスリリングな知性の結晶化に、私は心底、感動を覚えた。

 二〇〇〇枚に及ぶ大作はであるが、読み始めたら止まらない。最近の思想の動向が明快な構図の下に立ち現われ、その背後にある根本原理は、まさに本書の理論なのだということが分かってくる。

著者によれば、ナショナリズムの本質は、遠心化(普遍化)作用に対する防衛機制にある。例えばナショナリズムは、「人々はみな平等に扱われなければならない」という普遍主義を掲げる一方で、その範囲を制約しつつ、特殊主義の信仰へと反転してしまう。ナショナリズムはきわめて近代的・普遍主義的な現象でありながら、主観的には古代から続いてきた実体とみなされ、信仰の対象にもなっている。

 こうした普遍主義と特殊主義の二重規範において捉えてみると、ナショナリズムとはつまり、二つの規範がもたらす運動であって、その背後には資本主義のダイナミズムがある。私たちの経験可能領域(規範的地平)は、資本主義の運動とともに拡張されるが、その地平を具体化する求心力によって、ナショナリズムは生まれ、成熟し、そして現在、乗り越えられようとしている。

無論ナショナリズムは、簡単には乗り越えることができない。例えばフランス人は、「フランス人であることによって真のヨーロッパ人になる」のであって、最初から無媒介にヨーロッパ人という普遍的価値を実現することはない。同様に私たちは、現代社会がいかにグローバル化しようとも、ナショナリズムへのコミットメントなしに、普遍的な価値を担うことができない。

国民国家は不十分な単位であるが、アイロニカルな仕方であれ、そこに没入しなければ普遍的価値を実現できない。なぜなら資本主義は、私たちの経験可能領域を広げていく一方で、同時に個人の存在根拠を侵食してしまうからである。この侵食を防ぐには、ナショナリズムであれ原理主義であれ、意味を与える共同体を求めるほかない。しかし著者によれば、逆説的なことに、私たちの内密な核を「敵対的な他者(異邦人)」が担うという反転が生まれている。自己の中核を、敵が占め始める。この逆説がさらなる現代史を駆動する、というのが本書の診断だ。

 ではナショナリズムや原理主義を超える理路とはなにか。著者はキリストへの逆説的な愛のなかに見出している。

橋本努(北海道大准教授)